繋がりの研究

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村岡 聡(群馬県)
自己病名:つながり喪失症 孤立無援タイプ

1. 苦労のプロフィール
私は、家族の中で、幼少期から母の望む長男像を目指して、無意識的にも意識的にも頑張っていた。母は私に「出来る事は自分一人でやってしまいなさい。少しは皆と一緒に遊びなさい。協調性を持って行動しないと駄目よ」と、常々言っていた。少なくとも私は、そう言われている、と思っていた。また、家族の中では、もうひとり祖父が、私に幼少期から大きな影響を与え続けた。家の暴君であった祖父は、一時も休むことなく家族全員に自分の思いのままに服従することを求め続けていた。小学一年生の時に、私は、母の期待に応えるために、独り静かに内側で人格矯正を決意して取り組み始めた。同時に、祖父の洪水のような言葉の攻撃から身を守るために心に厚い壁を作り続け、祖父のそういう振る舞いを変え母や自分が安心して過ごせるようにしようと激しく対立した。そして、小学校低学年から祖父に爆発していた。

一方、学校では、うまく挨拶出来ない・手が挙げられない・いじめられっこの生徒として小学四年生まで過ごしたが、スイミングスクールに通い泳ぎが速くなってから、部活の部長や生徒会長などをするようになり、リーダーの一員として過ごすようになった。ただ、絶えず「将来、会社・実社会では通用しない。大人になるのが怖い」「どうせ死ぬとき苦しむなら、今のうちに楽に死んでしまいたい」という思いに常にとらわれ続けてもいた。そして、想いが爆発した大学四年の就職活動目前にリストカットして入水自殺を試みるも自ら岸に這い上がり、救急車を呼び生還した。大学をお情けで卒業させてもらったものの、家に15年引きこもった。不思議なことに家事、家族の看病、祖父の介護、自宅での家庭教師、スポーツを全力でこなしたし、毎日のように祖父と争って爆発して、時々パニック発作を起こした。祖父の死とともに現在のデイケアに通いべてるの当事者研究に出会う。

2.研究のきっかけ
仕事なし、収入なしどころか、履歴書に書ける職歴なし立場。友達も恋人もいない現実。そんな状態で社会・人間関係への不安から怖れおののいて両親に依存しないと全く生活できない人間であるのに、本当のところ私自身は、そんな生活に生きづらさを感じることが出来ていなかった。ただ、本の中に展開される「べてるの世界」には心を揺り動かされ当事者研究をはじめた。

3.研究の動機
実際は訳わからない期待に乗り、デイケアに来るまでの人間関係の作り方、物事への取り組み方のメカニズムを明らかにしたかった。「何故、強い不安と怖れを社会や人間関係に感じているのか?何故、自分はいつになっても実社会に出れずに、独り何もできないでいるのか?」を探りたかった。

4.研究の方法
棚卸し的な時系列史。日々のメモ、考察。デイケアの様々なプログラムに参加して、相談・発表。仲間とのカフェや部屋での話し合い。

5.研究の経過
べてるの書籍を読んだり、プログラムで研究発表や相談をし続けると“なにか”得たような気づいたような感じになるものの、変わり映えのない日々が続いた。むしろ、デイケアの日常の人間関係を知らぬうちにこじれさせて行き詰っていた。また、デイケアでの活動で共に作業をするときやイベントがありそれを企画・行動する中で、仲間・スタッフの人たちとぶつかり合い・擦れあい、非常に生きづらい日々が続いていた。今、振り返ると、いつも思い通りにならないこことに苛立ち、他人を悪者にして裁く、上から目線に気づかず支配的な自分の行動が故であったように思う。四年の月日をかけて、仲間が私を見捨てることなく言葉で行動で伝え続けてくれた。

6.考察
自分はよりよく生きるためには「勝ち続け、強くあり続けなければならない」と思っていた。そして、その生き方では、弱さは隠し続けるものであった。弱さを見せるくらいなら他の感情もまとめて押し殺し、厚い壁でできた心のゴミ箱に捨ててふたをした。自分の弱さに気づかれるくらいなら、ひとと?がることを避け続けた。そして、その代償として長い孤独で孤立した人生を送ってきたように思う。しかし、今、ひとと?がることを求める自分は、弱さを認めつつひとと語り合い触れ合いながら、共に行動したいと思っている。

7.感想
メカニズムは分かってきても、日々のメンテナンスは欠かせない。語り合わないと弱さの情報公開をしないとすぐに孤立してしまう。生活することは、とても難しいと実感しながら日々生活している。